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平成時代を振り返る(4/30)

平成が終わる。この30年を振り返ってみる。
ぼくが大学を卒業したのは昭和61年。中学数学の産休代替教諭を経て,東京都の小学校教諭になれたのは昭和62年だった。初任で3年生,2年目で4年生を担任している年,3学期になる頃に平成を迎えた。昭和63年から松下視聴覚教育研究財団(現:パナソニック教育財団)に3年連続で研究助成をいただき,教室に1台のMSXコンピュータと28インチTVでの実践をスタート。平成2年,ぼくが勤めていた学校にコンピュータ室が完成し,個別学習や情報活用能力の育成の実践に思う存分に携わることができた。これが今に大きく生きている。
平成4年,6年生を卒業させると同時に,東京都を退職し,開学3年目になる西東京科学大学に助手として着任する。理工学部経営工学科という畑違いの仕事だったが,戦略経営などのマネジメントや,人間工学などのインタフェイスにつながる分野,システム工学や品質管理などの工学的手法を学ぶことができた。平成5年に夜間開講をしていた電気通信大学大学院電気通信学研究科情報工学専攻博士前期課程に社会人入試で合格,ネットワーク上で協働学習を支援するシステムの開発と評価で修士論文を書き,平成7年に修士(工学)をいただいた。この頃,聖徳大学短期大学部で初めて非常勤講師を務めた。算数科教育法だった。
平成8年,富山大学教育学部附属教育実践研究指導センターに専任講師として着任。32歳。34歳で助教授にしていただいた。上司は山極隆先生。中央教育審議会の委員だった。その後にJSET会長になられる山西潤一先生,その後に早稲田大に着任される向後千春先生,同時着任だった黒田卓先生が同僚で,高橋純君が大学院生だった。黄金期の富山大学で学んだことの中心は,学校現場を支援しながらそれを実践研究として成立させる方法だった。JSET全国大会を事務局長として担当した。教育工学若手研を始めたのもこの頃だった。
平成12年,英国への在外研究を終え,7月に静岡大学情報学部に着任した。その後にJSET会長になられる永野和男先生の後任だった。周囲に教育研究をしている人がほとんどいないことが教育学部と大きく違うところだった。ICT活用や情報教育を「情報学」としてどのように捉え直すかという良い機会になった。企業との共同研究をたくさん重ねることができた。大学入試センター試験の作問委員も良い経験だった。文部科学省の仕事が多くなり始めた。
平成17年,10月に独立行政法人メディア教育開発センターの研究開発部に准教授として着任した。41歳だった。学生がいないことはとてもさみしかったけども,JSET会長を退かれたばかりの上司の清水康敬先生のもと,鋭意研究を進めることができた。同じく平成17年10月に東京工業大学大学院社会理工学研究科人間行動システム専攻博士後期課程に社会人学生として入学した。平成18年4月より,文部科学省の参与を併任し,情報教育を担当する行政に関わることになった。
平成21年,独法廃止の流れの中,同センターは廃止となった。4月,玉川大学学術研究所に准教授として着任した。45歳だった。山極隆先生が2回目の上司となった。9月,4年かかって無事に博士(工学)を取得することができ,翌平成22年に教職大学院の教授として学内異動をした。教職大学院という新しい枠組みでの実践研究は良い経験となった。谷先生と出会った。
平成26年4月,東北大学大学院情報科学研究科に教授として着任した。50歳だった。そこからは研究者養成を主たる業務とし,博士後期課程の院生たちの指導を中心として研究を推進している。JSET全国大会を大会実行委員長として担当した。山極先生の後を追って中央教育審議会の委員となった。山西先生や永野先生の後を追ってJSET副会長を拝命した。以前院生だった高橋君は東京学芸大学教育学部に栄転し,今でももっとも研究分野や研究手法の近い研究者である。ぼくのところで博士号を取得した佐藤カズや板垣,槇さんなどは大学教員として歩き始めた。こんな風に長い時間をかけて出会った方々とのご縁で今がある。そんな平成時代だった。
令和元年。東北大学で6年目の勤務,専攻長として迎えることになった。年齢も熟してきた折,学内行政も努力していきたい。

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