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大塚君の告別式(1/24)

大塚昌志君。享年55歳。荒川区立第三瑞光小学校・校長。1/17急性心不全でご逝去。
ぼくは昭和61年に東京学芸大学を卒業した。熊本県の教員採用試験に落ちたため,1年間,東京に残って中学校で産休代替教諭として過ごした。昭和62年,無事に東京都に小学校教諭として採用され,江東区立豊洲小に配属された。その年に同区に採用された初任者は約90名。新採研(現在の初任研)は6つの分科会に分かれていて,第3分科会の10数名のメンバーの中にぼくも大塚君もいた。大塚君はその年に東京学芸大学の学校教育選修を卒業した新卒。北砂小に図工専科として採用されていた。第3分科会はとても活気があり,初任研が終わった翌年も一部のメンバーで「第3分科会」というサークルを作って勉強を続けた。
ぼくは28歳で大学の助手に転身することになった。大塚君は中央区に異動した。ぼくは江東区時代の先輩たちとネット研という研究会を作ったが,しばらく後に大塚君もここに加わってくれた。おかげで中央区立明正小の歴史的な建物で研究会をやった。
ぼくは32歳で富山大学に移り,その後,36歳で静岡大学に移った。大塚君はその頃は若くして教育管理職A選考に合格し,目黒区の指導主事になっていた。その頃,中尾さんがICT支援員として働いており,静岡大学の社会人大学院生として入学してきた。
大塚君は30代後半で,雄山の噴火があった三宅島で全島避難が解除されたタイミングで,若い副校長として着任した。火山灰を片付けるところからの過酷な仕事と聞き,静岡大学堀田研究室では,ボランティアを募り寄附を集めて,三宅島に乗り込みネットデイをした。その時のいくつかの記録がここに残っている。
まもなくぼくはメディア教育開発センターに異動し,文部科学省に参与として併任する。大塚君は目黒区教委の統括指導主事,墨田区の校長,目黒区教委の課長と,若い出世をする。今で言うICT支援員に繋がる政策会議のメンバーになってもらった。ぼくが立ち上げた学習会VHSにも所属してくれ,全国の先生たちと一緒に学ぶことができるようになった。40代後半で大塚君が荒川区の第三峡田小学校の校長になった時には,1人1台の情報端末の活用について校内研の助言に入った。その後,荒川区で3校目の現任校の2年目に急逝する。
ぼくにとっては,良き思い出を残してくれた同期であり,付かず離れずで寄り添ってくれた大切な仲間だった。急逝の噂を聞いた先週土曜日には信じられない気持ちだったし,正式な訃報を見た時も嘘だろと思った。今日,町屋斎場での告別式に参列し,荒川区教委の高梨教育長や瀬下課長とも話をした。来年度は荒川区小学校校長会の会長に就任予定だったとのこと。活躍のステージを残しながらの無念な逝去だったのだと思う。遺体を見送りながらひとしきり涙した。写真に向かって「何やってんだよ,まだやることあっただろう」と声をかけた。ほんとうに辛い1日だった。
大塚君,ご冥福をお祈り申し上げます。これまでありがとう。

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コメント

ご無沙汰しております。
三宅島のプロジェクトは、当時ブログに先生が書かれた記事を読み強く心に残っておりました。そうですか、そのときの先生が・・。ご本人の無念さ、先生の落胆如何ばかりかと存じます。ご冥福をお祈りいたします。

投稿: 土田幹憲 | 2020年2月 1日 (土) 10時05分

突然のコメント失礼致します。
在校生の保護者です。大塚先生の歩まれてきた道を知ることができ嬉しいです。
本当に素晴らしい校長先生でした。急な訃報に子供たちも保護者もとても落ち込んでおります。
訃報を聞いた日は学校でたくさんの子供が泣いていたそうです。私自身もショックで信じられませんでした。
息子は訃報を聞いた日の夕方、一番星を見て「あれ校長先生かな」とつぶやいておりました。
まだまだ子供達の成長を見守って頂きたかったです。
きっといつもの笑顔で空から子供達を見守って下さっていると思います。
ご冥福をお祈りいたします。

投稿: 在校生保護者 | 2020年1月28日 (火) 12時13分

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